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こんにちは

まるさんです。

毎週、僕の経営する接骨院の院長とミーティングをしています。

ミーティングと言っても

彼が話すことを僕は何も意見を挟まずに

うんうんと聞くだけ

そういう時間なんです。

先日、話を聞いていると

うまくいかないのには自分に責任ある

そんな風に感じているようでした。

勉強しても続かなかったり、理解できなかったり

そういうことを繰り返しているうちにいつしか自分に「できない」というレッテルを貼ってしまったようです。

自分は間違っている

そんな風に認識してしまうのです。

自分が間違いであれば、他人が正解ということになります。

その正解探しをしているうちに迷子になってしまうのです。

僕はこの「できない」ということの裏には
できなくても問題ないという心の状態ができるか?ということが大きく影響していると考えています。

できなくても問題ない

というのは
できなくてもいいというわけではなく

失敗しても大丈夫という安心です。

それはいくら上司である僕が

「失敗してもいい」

そう言っても伝わりません。

むしろ僕の役割としては
彼が取り組んできた過去を認め、信頼し、その価値に氣づくことなのではないかと思うわけです。

問題解決と見れば
成果や能力が最重要になります。

しかし、課題として見れば
事よりも人にフォーカスできます。

カラダという観点から見ても
過去や足跡という部分をきちんと観るということは、グラウンディングを意味します。

姿勢や背骨をいくら直しても、すぐに崩れてしまうのは、根っこである足にアプローチできていないからです。

ヨガやエネルギーワークで言われるチャクラなんかも第一チャクラがこれに相当すると思います。

足元が安定すれば、上半身の力は自然と抜けるようになります。

不安や恐怖、畏れ

そういう感情も落ち着きを取り戻します。

頭の中や視線の先にある

自分を否定する感情も、足元を眺めていけば自ずと落ち着いてきます。

自分を愛するとか認めるとか

そんな仰々しいことではありません。

自分の「できた」という経験を受け止めること。

自分の「失敗」への認識を受け止めること。

そこに間違いはひとつもない。

ただ、知らなかっただけだし、知ろうとしなかっただけ。

「立つ」これがカラダもココロも最初の目的です。

僕も昨年、自分の「間違い」を指摘されました。

これは僕が「できない」そう言われたようでしたが、そうではありません。

僕らしくないということなんです。

僕の過去から導き出されたことではなく

他人に正解を求めた結果、僕の言葉になっていないということなんです。

だから「間違い」なんですね。

間違いを犯すと反省しなければなりません。

反省というのはその指摘した人の言うようになることではありません。

反省というのは自分を振り返ることです。

振り返るんだから過去ですね。

別に自分を責める必要もないんです。

自分ができたこと、思ったこと

そういうものをもう一度見直すこと。

そういう時間をつくることです。

こんなことを見つめていると

あぁ、僕はそんなにダメではないな

と思えてきます。

そこからはじめて未来を見てみてください。

違う世界に見えてきませんか?