10891932_635839016521504_1678546019392936245_n

こんにちは

まるさんです。

僕は最近、僕が経営する接骨院の院長に毎週5分間、「僕に語りたいこと」を語るという時間をつくっています。

その時間の中で彼がこんな話をしてくれました。

自分を満たすってどういうことなのか?

そんなことを考えてみたら、僕は何かがないと満たされない、誰かがいないと満たされない。そう思っていることに氣づきました。

そして

先生は、満たされた状態は自分がまずそうなることだと言いますが、それはどうしてできるのですか?

と僕にこんな質問をしてきました。

たしかに自分を満たそうとした時に、音楽を聴く、映画を観る、本を読むそういうことで氣を紛らわせることもありますし、話を聞いてもらったり、愛情の確認をしたり、誰かに褒めてもらったり、そういうやりとりで感じることもあります。

でも、それは単にその一瞬の氣の紛れでしかなく

次の瞬間におこる些細な出来事で、自分のココロは枯れてしまいます。

幸せであるか?

そう世界を観ると同時に不幸が見えてきます。

それは自分の中の幸せの基準が、それに見合わないものも見せてくれるから。

幸せと言いながらも不幸を創り出し、正しさで相手を観ることになりますね。

幸せは誰もが幸せ

そういう前提にあれば

幸せかどうか?なんてどうでもいいんです。

満たされていない自分を満たす。

このことが大切で、それが自分を可愛がっていくことになるんじゃないでしょうか?

満たされない自分の源泉はどこにあるのか?

今、改めて心理を学び直すためにある講座を受講しているのですが、そこで発達心理という学問が出てきます。

人間は心の発達の段階で獲得する課題とそれを乗り越えるために必要な関わりがある。

その成長を喚起するためには、人とどう関わってきたか?ということが重要だということです。

この満たされているという感覚のベースは「自己信頼感」「他者信頼感」この両者の上にしか成り立ちません。

自分は無条件に愛されている

生まれて間もなくは自分で何もできない。

その時に誰もが家族や両親の愛情をたっぷりと注がれているはずです。

そのことが思い出せないことになっている。

もちろん、その時期の親との関わりが薄い人もいる。

けれど、両親も完璧であるわけではなく、色々な要素で、自分の要求は見過ごされてきたかもしれない。

でも、大人になった今だからこそ、その事実を見つめていけばそれにも「愛」があったことが見えてくるかもしれません。

自分を信じることが本当にできるのは、自分へかけてもらった愛を思い出すことなのかもしれない。

そんな時間をつくることはあまりないし、セラピーの世界ではそれをアダルトチルドレンとかインナーチャイルドが癒されないとか、そういう形で「問題」として見せてしまうことで混乱を生んでいることに僕たち療術家は氣をつけなければなりません。

きちんと心理を勉強すれば、それは真実は誰もわからないが、それぞれの立場から見える主観を見ていけば小さな事実にはいきつきます。

そこを「癒す」のではなく、「理解を示す」ことで前提に変化がもたらせます。

その新しい自分の歴史への解釈ができれば、自分にも相手にも非がなかったこと、誰も責める必要がなかったことがわかります。

それをトラウマというには少し乱暴すぎます。

自分が満たせない

そのことから起こす問題行動がある。

人間は欲するものを得られないことから形を変えてしまうことがある。

だとしたら自分の欲求に忠実になって、自分を支えている紛れもない事実に目を向けて感謝をしていけば、底の抜けない器ができるのではないでしょうか?

自分を満たすには自分の器を確認してみる。

たくさんの愛や優しさや喜びを思い出すこと。

その器さえあれば、日常に感謝や賞賛が散りばめられていることがわかるはず。

そういう再認識をしていくだけで、自分の基礎がしっかりとしてくれば、その基礎をもって相手を満たすことも可能になるのではないでしょうか?