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こんにちは

まるさんです。

昨日は僕のとっても信頼する方に、たくさん想いを聞いてもらいました。

僕がこれからどんな役割を果たして生きていくのか?

その視点や切り口をどうしていこうか?

そんな話をしていました。

そんな中で言っていただいたのは、

「まるさんの強みは感じる力と疑う力です」

それを僕が存分に発揮している瞬間はどこかというと「診たて」じゃないか?と。

じゃあ、僕は人のカラダを診たてる時にどんなことを感じ、疑い診ているのか?

そこを書いてみようと思います。

カイロプラクティックの施術では、足の長さや脊柱のゆがみ、椎骨のズレを診て症状の改善を図ることが多いと思います。

僕の施術の前提は

「背骨はゆがむもの」なのでそこはあまり氣にしません。

足の長さだって、もしかしたら僕がそこを通り過ぎるだけで揃ったりするかもしれません笑

だとしたら、何を診ればいいのか?

何かを治す人

そういう自分で関われば

相手に何か問題があるという前提になります。

治療をしようとして相手を病人に仕立てあげていく。

こういう本末転倒な状況を生んでしまいます。

でも、どこかしら痛みがあったり、悩んでいたり、辛かったりするのも事実ですし、それを解消したくて施術を受けに来ているもの事実です。

でも、幸せでないわけじゃありません。

目の前の人が本当に求めているものは「満たされたい」という欲求です。

痛みが辛いのではなく、痛みがあることで満たされないものがある。

でも、実は痛みで満たされないのではなく、満たされないことで痛むのだとしたら?

その人の欠けは何なのか?ということ。

背骨のゆがみや足の長さの違いも、そうした欠けを現しているものだと仮定したら、満たされることでカラダは回復しやすくなるかもしれません。

「体が歪んでますね」

「足の長さが違いますね」

そう言われることで安心することがあります。

それはそこに原因を転嫁することができるから。

じゃあ、この骨のゆがみを治せばいいんだ。
足の長さがおかしくなったら整体に行けばいいんだ。

そういう安心感になることもあります。

その反面

そういうカラダへの認識を自分で植え付けていくことにもなります。

手技療法の目的のひとつは心地よい氣分になることや、氣持ちを安らげること。

緊張感にさらされた日常に安全な場所を提供することが、すべての療術に当てはまる氣がします。

だとしたら

何かをするという前提で関わるのではなく

どんな時間を過ごすか?というところに意識を置けば

治す人と治される人という関係性を崩すことができるし、その関わりを生むことで見えてくるものも違ってきます。

そこに何かに満たされず、問題を抱えたと言っている人がいて、その人といい時間を過ごそうとするならば、どんな時間にしようか?

そこからはじめていくと、満ち足りた時間がふたりの間を流れ、今ある問題の奥にある感情やそうなるプロセスが見えやすくもなります。

クライアントが術者に話すことなんて、ほんのごくわずかなこと。

いつから痛い?

どこが痛い?

どうすると痛い?

今までの病気は?

問診で繰り返される、ステレオタイプのやり取りの不毛さと言ったら…

そんなものはこちらが安心したいだけの情報であることも多いはず。

人を診たてるというのは

その人自体とどう関わり、どこに信頼を置くか?

そういう前提づくりが大事で、どんな人として相手を診ているのかで、見え方すら変わってきてしまう。

そういう自分の存在を丸くして関わることで、その症状の奥底にあるものがジワジワと出てくるのじゃないでしょうか?