こんにちは
まるさんです。
先日書いた、この記事の反響が大きかったので、もう少しカラダとココロのつながりについて。
膝の痛む患者さんで実際に膝自体が変形しているような人は、実は少なくて(僕のサロンに来る人は)
足がとても浮腫んでいる方が多いのです。
何やら重たそうに歩いてらっしゃる。
姿勢やカラダの偏りを観ていくと、前のめりになっていたり、地面が踏みしめにくかったりします。
実際、座った姿勢で足を僕が持つと簡単に持ち上がってしまいます。
椅子に座っているようで、座面にうまく乗れていない。
それだと腰や背中にも負担になりますね。
膝の曲げ伸ばしというのは、何も脚だけでやっているわけじゃありません。
背骨の弾力性も大事だし、何よりも地面を踏みしめてないと太腿にかかる筋力の負荷は大きくなります。
足取りが重い
そんな言い方がありますが、何やら鉛玉でも足につけているのかと思うくらいです。
でも、こういう人に限ってこんな風に言います。
「仕事が充実してて~」
「孫の世話が楽しくて~」
「やることがたくさんあって~」
さも、自分にはストレスなんかないよと言わんばかりです。
たのしい割には足が重くて動きが鈍いのです。
感情というのはひとつではないことがあります。
「たのしい」という感覚がカラダのどのあたりで感じるのかでも違うのです。
頭のあたりにパァ~と楽しいが感じられる人は、楽しさで紛らわせているかも?
胸のあたりでワクワクと愉しみを感じている人は、ドキドキの興奮も一緒に感じているかも?
肚(はら)のあたりでじんわり嬉しんでいる人は、一歩一歩を味わっているかもしれません。
「たのしい」はカラダの場所でも感じるニュアンスが少し違います。
頭の方だけで「たのしい」を感じていると、地に足が着かなくなり、足取りは重くなります。
足の方だけで「たのしい」を感じても、地に足離れが悪くて、足取りは重くなります。
フットワークが軽いなんて言いますが、そういう人は頭での想いと動きたい行動が一致して、素早く動けるのだと思うのです。
そういう意味では「たのしむ」というのは、単なる陽気で笑っていることではないと思うのです。
楽という字も、喜という字も、どちらも元は神様に捧げる音を奏でる楽器から来ていると言われています。
なので神に捧げることが「たのしみ」や「よろこび」となっていたとしたら、一時のカタルシスは本当の「たのしい」ではなく、何かを紛らわせているにすぎません。
僕もここのところ、一年くらい動けずにいました。
思うような働きができずに悶々としながらも、カタルシスに浸っていました。
そのときは、やはり足も浮腫んで、まさかの膝痛が起こりました。
あんなに膝が痛くなったのははじめてで、病院に行こうと思ったくらいでした。
結果的には病院には行かず、自分で浮腫を流して良くなりましたが、一番効いたのは、周りの人に支えられている実感が持てたことでした。
あぁ、俺はこんなにも周りから助けてもらっていたんだな。
そんな氣持ちになれたことでした。
前に進むことでもなく、足踏みをすることでもない。
ただただ、寄りかかることができる安心感に包まれ、歩き出そうと勇氣が持てた時でした。
その瞬間から、足取りは軽くなりました。
人生をたのしもう!
そんなフレーズをたくさん見かけます。
でも、それは何かをして面白、おかしく生きることではなくて、自分の可能性を感じ、人に支えられていることに喜びを感じれることです。
たのしい毎日なのに、足取りが重い
そんな時こそ、人に寄りかかってみることも必要かもしれませんね。